郷土芸能「六斎念仏踊り」を継承発展する京都 中堂寺六斎会の公式サイトです。

お知らせ

文化庁の『地域の伝統行事等のための伝承事業(公開支援)』を受けて制作された当会のドキュメンタリー映像(約13分)がYouTubeで公開中です。

【次回公演のお知らせ】

伏見稲荷大社 講員大祭奉納

日時:2024年10月12日(土) 11時半頃~(約60分)

場所:伏見稲荷大社 外拝殿

アクセス:JR奈良線「稲荷駅」下車 徒歩すぐ、京阪本線「伏見稲荷駅」下車 東へ徒歩5分


「清流の国ぎふ」文化祭2024 ~ 踊りでつながる岐阜と世界 ~

日時:2024年10月19日(土) 15時頃~(約30分)

場所:信長ゆめ広場(JR岐阜駅北口駅前広場)


「清流の国ぎふ」文化祭2024 ~ 風流踊フェスタ ~

日時:2024年10月20日(土) 14時頃~(約30分)

場所:郡上市総合文化センター


◇当会の公演は、公益財団法人 京都市文化観光資源保護財団の助成を受けて実施しています◇

会長挨拶

 京都 中堂寺六斎会のホームページにお越しくださいましてありがとうございます。

 中堂寺地区は、北は松原通・南は花屋町通、東は大宮通・西は御前通を境とした京都市下京区の北西部に位置しております。北に壬生、西に西院と接しそれぞれに六斎講中があり、歴史的にも交流を重ねお互い切磋琢磨し発展してきた経緯があります。

 六斎念仏は現在、宗教色を残した念仏六斎と芸能色を前面に出した芸能六斎とに分類されます。当会は後者で江戸後期に当時人気のあった長唄・地唄・歌舞伎・獅子舞等々を演目に加え、現在の形が出来上がったとされています。本来、農村社会に根ざした素朴な太鼓踊でしたが、洛中でその成果を発表する機会が増すにしたがって、より大衆性と娯楽性を採り入れてきました。明治から昭和の初期にかけては、芸能六斎が大いに発展した時代でした。

 大戦と戦後の混乱期には中断の已むなきを得ましたが、我々の先輩たちはいち早く復活の糸口をつかみました。地元の支援を頂きながら道具や衣装の新調に加え、後継者の育成には大変な情熱を注いでまいりました。農村社会の崩壊に伴い地縁血縁で構成されていた多くの六斎会が後継者難という最大の課題に直面したのでした。

 そんな中で当会は子供の出演演目を設け、幼年期からの育成に力を入れてきました。また平成15年から女子の参加も認め女性特有の演目も創作いたしました。今日まで200余年、幾多の困難を乗り越え継承されてきた伝統を堅持しつつ、斬新さに加え創意工夫を凝らしてまいりました。

 現在、80代から小学生低学年まで実働40数名の会員がおり、8月12日から16日の盂蘭盆を中心に活動しております。特に12日からの4日間は、中堂寺地区ゆかりの130余件の家々を棚経行事でお詣りさせていただいております。この行事が中堂寺六斎会の原点というべきものでしょう。他に年間数回の定期公演を実施しておりますので、機会があればご覧いただけましたら幸いです。

 結びにあたり、当会は京都の伝統芸能を継承し発展させ後世に伝える使命を全うすると同時に、心豊かな地域社会の形成と健全な青少年の育成に寄与することを目的とし、真摯に活動していく事をお誓いいたします。今後とも皆様方のご理解とご支援をよろしくお願い申し上げます。

                    会長  秋田 吉博

秋田会長

歴史

 京都府葛野郡中堂寺村(五条大宮以西)は、都に比較的近く、農産物の供給地であ った。とりわけ、藍・芹・大根は特産品として知られている。現在の下京区中堂寺櫛笥 町界隈を中心としていた地域で、今なお旧家の軒先が昔を偲ばせている。江戸元禄年間 に、村の有力者たちの手により、六斎念仏が取り入れられこの地区に定着した。

 明治に入ると、当時の形式を残しながらも、より新しい芸能性を求めて長唄・地唄 等のアレンジが採り入れられて、創意工夫がこらされた。明治末期から大正、更に昭和 の初期にかけて、洛中で各六斎講中の競演が催され、中でも、清水寺・東寺では夜を徹 して行われ、名実とも六斎の桧舞台となった。当六斎会では、塩見万太郎氏・秋田周三 郎氏が活躍し、他に勝るとも劣らない六斎会として不動の地位を固めた。

 更に滋賀県瀬田川畔の立木観音へも、毎年千日詣の夜には、当時、唯一の運搬手段 であった大八車に道具と衣装を満載し参拝、明方まで六斎念仏を奉納したとの記録があ る。

 因みに、同時期、隣接する壬生寺の大念仏「壬生狂言」を、庄屋の神先家を中心に わが中堂寺六斎の会員が約六十年もの間継承してきたこともあり、当会特有の曲目「橋 弁慶」はその遺産として演じられる。

 第二次世界大戦により中断の止むなきを得たが、終戦の翌昭和二十一年にいち早く復 活し、昭和二十八年には京都市の無形文化財の指定を受けた。現在会員は六十余名を数え、九十歳 代の長老から三歳の幼児までの幅広い年齢層が参加し、商店主、会社員、教員、学生た ちが会の継承、発展にボランティアで努力している。昭和四十九年には米国スポーケン市 で開催された環境万国博覧会に日本の郷土芸能、京都代表として派遣され好評を博した 。京都市内はもとより全国で観賞され、また、テレビ、新聞、雑誌等のメディアにも広 く取り上げられ今日に至っている。


現在の櫛笥町

六斎念仏踊り

 今から約千百年前、京洛の街々に疫病が蔓延し多数の死者が出た。当時仏教の末法思想の影響で人々が不安に陥ったその時、第六十代醍醐天皇の皇子といわれる市井の聖、空也上人が托鉢用の鉢と瓢箪を打ち鳴らし洛中の街角で「南無阿弥陀仏」を唱え人々の不安を取り除いた。この鉢叩き念仏が六斎念仏踊りの起源とされている。

 仏教で言う六斎日とは、毎月八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日の六日を言い、この日は悪鬼などが勢いを得て、人々に災いを及ぼすとされている。この日に、鉦と太鼓を打って念仏を唱えることから、「六斎」の名が生まれた。そして、精霊供養の盂蘭盆会と相まって発展し、今日の原型が造られたのであろう。

 近世に入ると、周辺の農村地域で都会の消費生活に憧れる若者の流失を防ぐため、多くの六斎講中が形成された。そして、洛中でそれぞれの技を競い合ううち、広く民衆の支持を得る為には芸能化への道が避けて通れないものとなりいくつもの派に分かれて行った。

 「中堂寺六斎念仏踊り」は、宗教的色彩が薄れ、芸能性・大衆性を多分に取り入れたものである。折りしも文化の中心が江戸から上方に移り始めたことにも影響され、長唄・地唄・太鼓の曲打ち・獅子舞い等が導入されたことは、六斎の大衆芸能化に拍車をかけたものと思われる。現在の各六斎講中の採っている形式は、およそこの頃に確立されたものである。

 大正・昭和にかけて、その隆盛を誇ったものの、戦争での中断・後継者難等で現在では数団体の活動に止まっている。しかし、昭和五十八年に文化庁から重要無形民俗文化財に指定された。現在、六斎連合会が組織されお盆を中心に幅広く活動している。

演目紹介

 中堂寺六斎の底辺に流れるテーマは「静」に始まり「動」へ、さらに華やかに「楽(がく)」を謳歌する。そして終曲は一抹の寂しさを予感させる、そんなストーリーが各曲、各場面に渦巻いている。この伝統的な理念を今後とも継承発展させる使命があり会員一同努力していくものである。

寄せ太鼓

発願、結願

 本来的な念仏曲で、一山打ちの最初と最後に「南無阿弥陀仏」を唱える。

六段

 原曲は筝曲で、当会の導入部の曲としている。厳かな念仏曲の後、無言(しじま)の中、「上打ち」が放つ豆太鼓の鋭い響きで始まる。同時に笛の柔らかい「しずみ」が続く。その取り合わせが曲全体を支配し凛とした落ち着きと優雅さをかもし出している。

すがらき(相打ち)

 前曲の六段からリズムとテンポがアップし、4人ずつの表と裏に分かれての相打ち。前半部には大太鼓が「上打ち」として旋律の細かいリズムを補完しドラムベースの役目をする。後半部は、軽快な相打ちでテンポを速めていく。原曲は地唄である。

石橋(さっきょ)

 「ボタンに戯れ、獅子の曲」で始まる長唄からの抜粋である。歌舞伎の連獅子としても演じられる。当六斎の数ある曲目の中でも、旋律が整い楽曲として評価が高く当会の重要曲目の一つである。

 以上三曲は続けて演じ、「一山打ち」開始の「側(か)」三部作である。「静・動・楽」の展開は中堂寺六斎全体の理念である。

橋弁慶

 壬生狂言から抜粋した牛若丸と弁慶との五条大橋出会いの場で、全て無言劇である。牛若丸の軽妙かつスピーディーな動きに対して、屈強で剛腕な弁慶との立ち廻りが見どころ。「小よく大を制す」日本人的な美学を象徴的に表現している。牛若丸を演じる子役は、次代を背負う中心的な人材として期待され育成される。因みに、当六斎会の先輩達が戦前約六十年もの永きに渡って壬生狂言を維持、継承してきた。その遺産として、狂言「橋弁慶」が演じられている。弁慶の「面」は壬生寺から寄贈いただいた物である。

越後獅子

 越後地方で生まれ、江戸で角兵衛獅子として発展した大道芸の曲である。どこか物悲しい旋律を笛の音色に合わせて、ゆったりとした振付けで演じる。

さらし(相打ち)

 三味線の細かいリズムの曲弾きを豆太鼓の相打ちで表現した。併せて、二枚のさらしを交互に振る小学生達の演技を新規に創作した。平成十五年以降、当会では女子の参加を認めその演目として取り入れ彩りをそえた。

 以上二曲は「越後さらし」として続けて演じる。

四つ太鼓(据え打ち)

 六斎の基本形で入会と同時に練習をはじめる。腰の構え、ぶち捌き等々厳しく指導される。当会では2種類の打ち方がある。

 一本ぶち

 文字通り太鼓台に置かれた四個の太鼓を片方の手だけで叩いていく。幼い子供から、中堅、ベテランまでその技を競い合う。

 二本ぶち

 一本ぶちに対して両方の手を使うことにより、スピードとテクニックの向上が図れる。中堅以上の力量者からはよりテンポアップする。また、上手、下手側で二人同時に打つ相打ち、さらに二個の太鼓を加え「六つ太鼓」、より高度なぶち捌きの「デレデレ太鼓」となりリズム、テンポとも最高潮となる。太鼓芸の粋を集め、華やかさを加えた当会得意の曲目である。

祇園ばやし

 京の夏を彩る祇園祭のテーマ曲をテンポアップして六斎風にアレンジした。原曲は月鉾、函谷鉾からの曲を抜粋している。導入部は笛の「しずみ」からはじまり、六丁の鉦の一成打ちで重い鉾が始動するがごとく曲が動き出す。前半部は原曲に近い出鉾囃子の優雅でゆっくりとした一節を鉦の音色を中心にして奏でている。

 中間部は戻り囃子をよりテンポアップし太鼓踊り芸の「妙」を創出している。またこの部分は、太鼓と鉦の異なるリズムがうまく調和し曲全体の美しい響きの中、すぐれた構成力と創作力が汲み取れる。

 後半部の「流し」になると太鼓の地廻りが加わり、そのあと子供達の踊りも入る。そして「棒振り」が流しのアップテンポに併せて厄除け祈願をする。「上げ」と称する最終部分では、上手、下手、両太鼓方のせり上がりが見どころで、鉦の柔らかい響きで終曲する。

 因みに、当会の祇園ばやしは、隣接する西院の六斎講中から指導を受けたと言い伝えられ、当時世間では「これぞ見てくれ西院の六斎」といわれるほどの評判で、仲間内では指導的な講中であったと推測される。

段々段(ざんざんざん)

山姥(やまんば)

 始まりの「側(か)」の曲で比較的テンポが速くリズミカルである。素朴な振り付けで、「上打ち」は細かいぶち捌きが要求される為、若手がその技を競い合う。

この二曲も続けて演じる。

うかり

 “空也”の寺として親しまれている京都・六波羅蜜寺が平成25年11月、開山1050年を迎えるにあたり故曲を34年ぶりに復活した。

 元来素朴な小曲であったが高度な太鼓芸に再編。前半は一部原曲を踏襲したが、後半は上打ちが音色の違った太鼓の相打ちで曲をリードし、加えて日本舞踊も取り入れ彩りを添えた。復活に際し、より技巧性・娯楽性に富んだ太鼓曲となっている。

猿廻し

 幼児から小学生、大人までユーモアたっぷりの振付けである。「上打ち」が中央に、周りを猿達が踊る文字通り〝猿廻し〟を想定している。

七草(相打ち)

 当六斎会オリジナル曲で高度な技量を要する。春の七草を織り込んだ長唄からの抜粋。七つの節目があり、豆太鼓の表と裏打ちの細かいリズムの掛け合いが随所に織り込まれ見せ場も多い。また、緩急をつけた曲想が笛、鉦との息の合った展開が要求されて太鼓芸の真髄を引き立たせている。前出の「石橋」と合わせて当会の重要曲目である。

獅子太鼓(地廻り)

 獅子舞いを呼び出す序曲である。前半部は二人一組の表と裏打ちが対角線上に激しく動く。後半部はテンポアップし表と裏の掛け合いと乱れ打ちが特徴である。当会得意の太鼓芸の一つで、最後の見せ場でもある。やがて、太鼓と鉦の乱打で獅子を呼び出す。

獅子と土蜘蛛

 当会では、獅子は正義の象徴である。太平を謳歌するがごとく勇姿の舞を披露する。その最中、随所にアクロバティックな演技を加えながら、やがて、五段重ねの碁盤上へ・・・。緊張感と集中力を一手に集め、その碁盤上での逆立ちは圧巻である。

 獅子が遊興に疲れ眠りに入ったところに、土蜘蛛の精が忍び寄る。当会では土蜘蛛は邪悪の象徴と位置づけている。獅子はその毒気に苦しみ、また、千筋の蜘蛛の糸に絡まりながら苦しみ惑う。やがて、生気を取り戻し勧善懲悪の教え通り獅子が勝利し勝どきを上げる。当会の土蜘蛛は壬生狂言からのもので、仮面を付けていることが他講中との違いである。

攻め太鼓

 正義を象徴する獅子が歓喜勇躍する中、前曲の獅子太鼓の後半部である、反し打ちでその勝利を祝い中堂寺六斎会のクライマックスとなる。当会とゆかりが深い六波羅蜜寺に残る古文書によると、― その昔、幾度となく邪鬼が住職の勤行の邪魔をしたところ、葛野郡の六斎講中が太鼓の反し打ちで退散せしめた ―との記録があり、当会の先達がそれに該当するものと推測される。その故事にちなんで、毎年当寺で行われる節分の追難式では、当会の土蜘蛛を邪鬼にみたてて、「攻め太鼓」の反し打ちで退散せしめ厄除け祈願をしている。


【廃曲】

鉄輪(かなわ)、八兵衛ざらし

豆太鼓の曲だったと伝わるが、戦前にはすでに廃れており詳細は不明である。

年中行事

【四月】

伏見稲荷大社氏子祭宵宮

四月二十九日

中堂寺六斎会、年度初めの一山打ちで演技者の初舞台ともなる。我が中堂寺は、北は松原、南は花屋町、東は大宮、西は御前通りを境とした地域であり、稲荷山に祭祀されている五社のひとつ「下の社」が中堂寺地区の氏神さんである。歴史的に塩小路地区も同じ神輿で、隔年で本祭り、居祭りを繰り返している。

【八月】

近隣学区内棚経

八月十二日~十五日

中堂寺地区を中心に盂蘭盆の精霊供養のため約百軒の家庭を「南無阿弥陀仏」を唱えて廻る。旧家では、座敷の仏壇前で四つ太鼓や段々段、山姥等の曲を演じる。この棚経が六斎の原型であり、お盆休みとも相俟って本格的な六斎のシーズンとなる。

壬生寺精霊送り

八月十六日

京都では、五山の送り火が催される。壬生寺でも精霊送りの法要が行われたあと一山打ちを奉納する。当講中の重要な舞台と位置づけて、七月の下旬から練習を始め、棚経を経て当日を迎える。古くは、本堂内北側にあった閻魔堂の前で演じており、左大文字を見ながらの奉納であった。しかし、昭和三十七年に旧本堂が焼失し以後一時中断の已むなきを得たが現在では本堂前の特設舞台で演じている。

【九月】

立木観音千日会

九月五日(土曜または日曜日にあたる年のみ)

中堂寺六斎会は当寺とは古くからの縁で、千日会の日に"一山打ち"を、夜を徹して奉納していた。

住吉神社祭礼宵宮

九月下旬の土曜日

京都の厳しい残暑も一息、秋風が吹く頃の公演である。地元神社の秋季祭礼でひと夏練習してきた演目を再度見直し、より技術向上を目指す区切りある舞台である。

【十月】

稲荷大社講員大祭

十月祝日の前の土曜日

全国の稲荷大社講員が伏見の本宮に集合し東日本と西日本の各講員を二日に分かれてご祈祷する。その両日に氏子達の芸能を神賑行事として奉納する。

【二月】

六波羅蜜寺節分

二月三日

その昔、『当寺の住職が勤行の最中土蜘蛛が現れその邪魔をしたとき、葛野郡中堂寺村の六斎講中が攻め太鼓の反し打ちを以て退散せしめた』との故事にちなんでいる。本堂中央で政界、地元有識者、宮川町の芸舞妓らによる豆まきのあと、住職が厄除けのお経を唱えているときに邪鬼に見立てた当会の土蜘蛛が巣を投げ掛けて邪魔をする。節分の豆と攻め太鼓の反し打ちにより退散せしめ、一年の厄除け祈願をする。

用語解説

【一山打ち(いっさんうち)】

念仏曲、発願から結願まで全曲を演じること。盂蘭盆を中心に奉納公演、地元公演で行う事が多く、講中の重要な舞台である。

【豆太鼓】

六斎特有の太鼓。直径十五センチ程度の平に子牛の腹の皮を限度いっぱいに張っており、鼓のような鋭い音がする。空也上人が、大衆布教の時に瓢箪を叩いたことに由来する。

【側(か)】

豆太鼓の胴部分を言う。転じて六斎の古い形で、豆太鼓の曲を総称する。

豆太鼓

豆太鼓

【鉦(かね)】

念仏に使用する鉦と同種であるが、音色、響きともより澄んでいるのが特徴である。六斎では全曲に使用し主として伴奏部を受け持つ。「鉢たたき念仏」と言われたごとくお鉢を叩いたことに由来する。

【すり】

鉦を叩くことを「スル」と言い、使用するバチのことを言う。鉦をスル頭は、鹿の角を輪切りにしたもので、柄の部分は抹香鯨のひげを用いている。近年自然保護の関係で代替品を使用している。

鉦とすり

鉦とすり

二丁吊り(にちょうづり)

横並びに二丁吊られた鉦の事。当会では祇園ばやし以外全曲に使用する。

二丁吊り

二丁吊り

一丁吊り

祇園ばやしでのみ使用する。当会では黒の漆塗りで京錺を施した枠に六枚の鉦を吊る。その外に、提灯や飾り房、金銀焼香太鼓をセットし、開始から最終まで一山打ちの舞台背景となる。

焼香太鼓

焼香太鼓

【ぶち(打棒)】

六斎では、バチのことを言う。堅ぶちは豆太鼓用。丸ぶちは普通の太鼓用。太ぶちは大太鼓用。踊り方や曲目により太鼓の大きさと種類が違いぶち(打棒)も機能的に変わる。

ぶち

ぶち

【上(かみ)打ち】

太鼓曲においてリードパートを受け持つソロの打ち手。当会においては、導入部の曲は熟練者が、その他の曲は若手、中堅者が打つ。

【しずみ】

六斎における唯一の旋律楽器は笛である。そのユニゾン部分で、落ち着いた中低音をゆったりとした奏法で発する長音の事。

【狂言】

古典芸能の能・狂言とは違い、宗教的な教えを説く大念仏狂言の事である。洛中には、円覚上人が創始した壬生寺や嵯峨の清涼寺、定覚上人が創始した千本ゑんま堂の狂言があり、京の三大念仏狂言といわれている。因みに、当会では歴史的な事情から、橋弁慶・棒振り・土蜘蛛を壬生狂言から取り入れている。

【相打ち】

豆太鼓で行うことが多い。「表」は曲をリードし、「裏」は間合いのリズムを拾っていく。双方の息のあった掛け合いが見所で太鼓芸の一つである。当会では、「すがらき」「さらし」「七草」が相当する。

【据え打ち】

本来六斎は太鼓を持って踊りながら打つ太鼓踊りであるが、四つ太鼓だけが固定した太鼓台に四つの太鼓を据えて打つ。太鼓曲であると同時に個人芸的要素も兼ね備えている。当会では、二本ぶちの途中「六つ太鼓」にも転じる。

【デレデレ太鼓】

四つ太鼓の高度な打ち方。利き手とそうでない手との強弱が無く、より細かいぶち捌きでテンポよく打ち、玄人受けする太鼓芸の一つ。

【地廻り】

太鼓曲の中で、その場で振りをする太鼓踊りに対して、躍動し移動しながら踊る太鼓芸のことを言う。祇園ばやしの「流し」部分や、獅子太鼓がそれに当たる。転じて、獅子の舞いを言う事もある。

【乱れ打ち】

表と裏の絡みのなかで、双方が調和し、流れるような太鼓のリズムで打ち手が移動しながら徐々にテンポアップを図る打ち方。

【反し打ち】

相打ちの一種であるが、特に歓喜勇躍する獅子の勝利を祝す「攻め太鼓」の部分を言う。

【獅子】

太平と正義の象徴。頭(かしら)、尾(お)、二人ペアーで演じる。日本各地に見られる「獅子舞い」は、胸部から腹部が露出しているが、六斎の獅子は胴が袋状になっていて脚以外の身体が全て隠れているのが特徴。「腰立ち」「肩立ち」「しょんべん遣り」「どんぴしゃ」「二丁返り」「股ぬき」「蚤取り」「碁盤乗り」などの技がある。体力と技術が必要で文字通り六斎の花形芸である。しかし、近年教育や社会環境の変遷に伴い、継承、養成に苦労している。

獅子の頭(かしら)

獅子の頭

【蜘蛛の巣(糸)】

土蜘蛛が、獅子との絡みで投げかける糸。素材は極薄の半紙で長さ約三メートルを鉛の芯に巻きつけ、幅一ミリ程度に切り刻んだもの。各講中では、独自の製法がある。獅子に掛かった蜘蛛の巣を一部持ち帰り、神棚に供えると厄除けに、また芯を財布に入れておくと金運に恵まれる、との言い伝えがある。

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